2017年10月14日土曜日

市川市の徳願寺には、宮本武蔵の描いた絵があるという。どのような絵か見たい。 また、宮本武蔵が行徳に逗留したとされるのはいつ頃のことか?(市川市中央図書館)

【外部リンク】
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絵については、『徳願寺四百年記念誌』(徳願寺 2010)p.58に「八方にらみ達磨絵図」が掲載されている。 インターネットでは市川市HPの街かどミュージアム>行徳・南行徳界隈>権現みち寺めぐり>徳願寺(http://ift.tt/2hFwC0W)に達磨画の画像あり。 宮本武蔵の行徳逗留については、諸説あり。 20代に逗留した説では、『宮本武蔵のすべて』(岡田一男・加藤寛/編 新人物往来社 1983) p.259の宮本武蔵略年譜に「慶長一六年(一六一一)二十八歳 下総(市川市本行徳)行徳在の開墾」と記載、『宮本武蔵』(小澤正夫/著 吉川弘文館1986)p.92の宮本武蔵年表に「慶長14年26歳~28歳 下総行徳の土民を指導し堤防を築き新田開発をしたと伝える」と記載がある。 また、晩年に逗留した説では、『徳願寺』(徳願寺)「宮本武蔵の供養塔」の解説に「武蔵は、晩年出家し藤原玄信と称し諸国行脚の折に現在船橋の法典ヶ原の開墾に従事した。その途中に当寺に留まっていた因縁により、水誉上人が武蔵の遺品を集めて、正徳二年(一七一二年)に建立したもの」とある。 『明解行徳の歴史大事典』(鈴木和明/著 文芸社 2005)p.239宮本武蔵の供養塔の項に1712年に再建されたものとしながら、『葛飾誌略』の引用として「宮本武蔵の塚。これその頃妙典村五兵衛といへる者の所に止宿せしが、ふと病気づいて卒す。いつの頃にや、大洪水の節、押埋りてその跡いまは詳しからず。武蔵は武芸の士なりと」と記載がある。
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